聖なるいじめられっ子の冒険

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聖なるいじめられっ子の冒険 Vol2

 こんにちは、ねたろーです。

 先日、宮沢賢治に関するポストをアップしたんですが、タイトルに反して宮沢賢治のいじめられっ子観を書いていなかったので、今日書いておこうと思います。

 

tasutasu100.hatenablog.com

 

 そもそも「聖なるいじめられっ子」という言葉は図書館で読んでいた本の中に出てきたものなんですが、この言葉に触れる前に、宮沢賢治の理想の男ってどんなやつだろう、ということを考えてみたいと思います。

 

理想の男像

  パッと浮かぶのは「雨ニモマケズ」にでてくる

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル

 

 という一節。現代的に言うと、教室で目立たず、いじめられているわけでもなく優しく控えめに笑っている男の子でしょうか。

 関係ないですがそういう男の子(女の子も)ってたとえ恋人ができなかったとしても、人生のどこかでめちゃくちゃいい同性の友人ができる可能性高いですね。前の記事でも書いたんですが、やはりホモソーシャルな友情は異性との関係とは求められるものが違うのかもしれません。

 

 

よだかの星と精神勝利法

 さて、「よだかの星」です。

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こう見えて背筋をぞわぞわしながらカブトムシ食べちゃう変態よだかくん



 

 どういう話かというと、

 主人公のよだかは醜く力が弱いために鷹にいじめられ、「市蔵」と名前を変えろといじめられます。よだかは助けを求めようにも自分だって虫や小鳥を食べて生きているので縋る相手もなく、仕方なく夜空に飛び立って星々に願いを叶えてもらおうとしますが誰にも相手にされず、最後は命を振り絞って飛び続け永久に光り続ける「よだかの星」になった。

 

というもの。

 

 このお話は地主の家に生まれ農民を搾取する自分の出自に対する罪悪感から出たものだとよく言われますが、いろいろ違った見方もできると思います。

 

 例えば、「よだか」はいやな現世からオサラバして、悪い奴らの手の届かない夜空で輝き続ける星になりました。いじめっ子と実際に戦うのではなく、「連中の手の届かない高みから見下ろしてやりたい」と考えるのはいじめられっ子の普遍的な願望ではないでしょうか。

 いじめられっ子の「俺はあいつらみたいな低俗な奴とは違う」という激しい優越感は結局一種のヒガミなわけです。そうは言ってもいじめは辛いですし。このような、戦ってお互い傷つくのは嫌だしダセエので不戦勝したいという図々しい妄想を僕もよくするのでめっちゃ気持ちわかります。

 

 

 「よだか」はタカと戦う代わりに空に向かって飛び続ける*1ことで現世のマウント合戦から抜け出てしまいます。これって現実でもよくありますね。クリエイターがいじめをバネに自分の作品を作り続けていたら売れっ子になってた、とかもこれに類する話かも。

 話がみみっちくなりますが、ツイッターでもこういう状況を見かけることがあります。恋人の有無だの有名人とのコネだの、ツイッターで見苦しくマウントを取り合う連中を晒したらバズってしまい、結果的に自分が上位にあることを示せてしまうことがたまにありますね。それを踏まえると「よだか」はツイの逆張りオタクだとも言えます。

 

 しかし、節度を保ってマウントを取り合う限り、どれだけ第三者から醜く見えたとしてもそれは社会の中の正常な競争かつ人間関係です。こうなってくると立場が再度逆転し、勝ち誇っていい気持ちになっていた逆張りオタクは、自分の心の中でのみ勝っているという「お前がそう思うならそうなんだろ」状態に陥ってしまいます。

 

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嘲り顏が似合うゆのっち。ちなみにオリジナルはバレー漫画の一コマでした。

 

 たまには痛みをこらえて競り合わなければちゃんとした勝利も敗北も得られないよ、というゆのっちのキツイご指摘でした。

 

 そもそも「よだか」は自分が生きるために他者を傷つけることにすら傷ついてしまう太宰治タイプの弱者なので、基本的には生態系の上部に位置する恵まれた存在です。いうなれば恋人いるし自分の容姿がそこそこ整っていることを誰よりもよく知っているくせにメンヘラ芸をやめないやつでしょうか。

 

 

 それでも自分を傷つける存在への恐怖心を自覚し、逆に誰かを傷つけていることに気づくことのできる賢さそのものが尊いんだっ!ということが宮沢賢治の言いたいことかなと思います。

 

 

「生前全く評価されなかったけど死後国民的作家になりて〜」症候群

 続いて「虔十公園林」。「けんじゅう こうえん りん」と読みます。

 

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 主人公「虔十」は知的障害のある男で、文字通りみんなに「デクノボー」と呼ばれ、「イツモシヅカニワラッテヰル」んですが、ある時思い立って杉を植えます。虔十は地主の妨害にも屈せず杉林を守り抜きますが、結局デクノボーのまま死んでしまいます。杉林は虔十の死後子供達の遊び場になり、村人は彼の功績を偲び、虔十公園林と名付ける。

 

 というお話。

 このお話の面白いところは二つあって、一つ目は最初に虔十の功績に気づいた男はアメリカ帰りのインテリだということ。二つ目は、虔十はその功績が死んで初めて評価されるという、宮沢賢治と同じような人生を送ったということです。

 

 まず一つ目から。虔十の死後、村出身の大学教授が故郷に錦を飾り、小学校で講演します。その時村の発展に飲み込まれることなく子供達の遊び場になり続けている虔十の杉林の偉大さに気づき、虔十の記念運動を始めます。

 この博士はアメリカ帰りなんですが、当時、留学も博士号も今とは桁外れに実現が困難なスーパーインテリの証です。宮沢賢治は東京で挫折した後は海外に憧れていたそうですが、「結局自分を理解できるのは真のインテリだけ」という思いもあったんじゃないかなーと感じます。「俺は農民のために尽くしたけどどうせわかってくれねーんだろうなあ」みたいな。

 

 余談ですが、数年前とある掲示板で「真のリア充はぼっちに優しい。ぼっちをいじめるのはキョロ充」という意味不明な理屈で煽られたことがあったんですが、これも手の届かないくらい上位者に認められて〜という欲求の表れだったのかもしれません。(∵)アッ...アッ...

 

 

 二つ目は、生前ほとんど評価されなかったけど死後国民的作家になった宮沢賢治と虔十はとてもよく似た人生じゃないかということ。もちろん賢治はインテリで金持ちなので小作人(おそらく)だった虔十とは全然違うんですが、結果的に似たような感じに。

 

 この「俺は死後認められるハズ」願望は芸術・サブカル分野と相性がいいのかいろんなところでよく見ますね。かくいう僕もそういうことを考えていたことがありますが、誰も理解できない自分だけの価値観に殉ずるヒロイックな悲観と「そうは言うても死んだら誰かわかってくれるやろw」という楽観「ていうか誰でもいいから褒めてくれ〜」という切羽詰まった承認欲求が入り混じった状態だったことを覚えています。

 

 

 主人公虔十は知的障害者なんですが、文学作品などで彼らは時に超俗的な慈愛を持つ存在として描かれることがあります。彼らが自分を迫害する凡人に向ける哀れみを神聖視していたのではないかな、と思います。度を越した優しさと愚直な純粋さを、負け続ける人々に見出し自分の挫折続きの人生に重ね合わせたのではないかと。

 

おわりに

  ようやくこの稿のテーマに戻ってきました。「よだか」や「虔十」のような純粋で悪意のない人間は損をするけども最後には必ず凡人にはたどり着かないような栄光を手にするんだよ、というお話を見てきましたね。

 「いじめられてしまうような弱い人間は、凡俗の見えていないものが見ることができ、いつも哀れみを含んだ眼差しを僕らに向ける聖なる存在だ」という開き直りにも似た考えは、他者への優越感を手放さないくせに、一方では劣等感を抱え自分を敗者だと位置付けてしまう僕らには慰めになるかもしれません。

 

さて、本当は一回で終わりにするつもりだったのですが、ついつい長くなり二つに分割しました。このポストを書くために借りてきた本を返しに行きますが、ついでにまた別の本を借りてきて新しく記事を書いていこうと思います。

 

それでは。

ねたろー

 

*1:この作品では飛ぶことが大好きで得意な鳥として描かれています。