聖なるいじめられっ子の冒険

このブログは昔の作家の面白エピソードを主に紹介しようと思っています。よろしく

30歳という呪いと祝福

こんにちは、ネタローです。

 

僕は昔から、歳を取るということに恐怖感があり、本当に自分はおじさんになってしまうのかなと思うほど、自分と歳をとるということを結びつけられずにいました。

実際、僕は子供の頃、いつまでも子供で、青年でいられると思っていました。

 

今年、29歳になります。

このくらいの年齢までは周りから若いと言われることも多く、自分は若者側の人間であることを疑わずにすみましたが30歳になったらどこからどう見てもおじさんです。

 

おじさんになった自分がどうなるのか、周りが自分をどう見るのか全くわかりません。

誰にとってもそうですが、おじさんになるまでおじさんの気持ちはわかりませんからね。

僕はこれまでおじさんを「昔若者だった人たち」とはみなしてきませんでした。自分とは全く別個の生命体、少なくとも自分とは違う世界の人だと思ってきました。そういう人たちの世界に僕は踏み込んでいくわけで正直あまり愉快ではありませんでした。何というか、自分が敗残者の側に向かっていく気がしています。若者に馬鹿にされ、舐められ、嫌われる存在になっていくような気がします。

 

このような「年齢を重ねていくことに対する嫌悪感」がどこから来るのか今までわかりませんでしたが、最近例によって自省にふけっているうちに結局のところ自分の生き方に由来するものかもしれないなと思うようになりました。

僕は小学生の頃も中学生の頃も高校生の頃も、もちろん大学生のころも「将来〇〇になったら」という意識で過ごしてきました。

高校生になれば彼女ができて楽しい学生生活を送れるに違いない、みたいな。

高校生の頃は、大学に入学して東京に行ったら灰色の毎日も憂鬱な時間もどこかに吹っ飛んで、華やかで綺麗な人生を送れるに違いないと思っていました。

もちろん大学に入ってもそんなことはなく、大学生になったら海外に行けば〜と思っていました。*1

 

そういう、今はダメだけど別の場所に行けば〜という意識は若者の特権ですよね。

年齢を重ねれば重ねるほど可能性は目減りしていき、現状はダメだけど本当なら俺だってと思うことはできなくなっていきますし。

僕は多分おじさんになることが嫌というより自分の潜在的な可能性、未だ実現していないあるべき自分がなくなっていくことが寂しかったんだと思います。

 

反面、30歳以上の人と話していると30になって楽になったという人もいます。

いろんなことを諦められたそうです。

 

正直そうならいいなと思います。今の自分を苦しめているいろんな物事への期待や、自分が実現できなかった素敵な人生を最初からなかったものとして諦められるならいいなあと思います。

30歳になるか35歳になるか40歳になるかわかりませんが、自分が固執してきた「あるべき自分」を忘れられた時、年齢を重ねるということを心から祝福できるのかもしれません。

 

ネタローでした。

 

 

 

*1:ネタローは一時期海外逃亡していました。

人生の帳尻を合わせるということ

お久しぶりです。ネタローです。

 

 今日は人生の帳尻を合わせるということについてつらつらと述べてみたいと思います。と言っても、幸運と不幸の総量がどうとか、若いとき苦労しなかったから後で苦労するとか、そういう話じゃありません。

 じゃあ何かっていうと、幼いときに空いた心の穴はどこかで埋められるという話です。

 

 僕は自慢ではないですがあまり家庭環境が良くなく、子供の頃は両親が毎日怒鳴りあっている家庭に育ちました。そのせいか引っ込み思案で自信がなく、他人が自分を愛している、必要としているという実感の乏しいまま成長しました。

 そうすると、どこにいても遠慮がちだったり自分の要求を上手く伝えられないんですね。多分、ツイッターによくいる非リアもこういう人が多いんじゃないかと思います。

 

 僕は小学校時代孤立していた時期があって、この時代自体にあまりいい思い出がないのですが、幾つか自分の中で決定的に欠落してしまったと感じる部分があります。

 それは、同級生の女の子とキャッキャする経験であったり友達と心からワイワイする経験です。僕は割合頭のいい子供だったので孤立してしまった後はすぐに対人戦略

*1

を練り直して、男子とは良好な関係を築くことができたのですが、その戦略のせいでいつも他人に気を使ってしまい、自分といても楽しくないだろう、だからこういう振る舞いをしないとけない、みたいな思考をするようになってしまいました。(女子とは最後まで打ち解けませんでした。)

 

 外面はにこやかでも内心ブルブル震えているような人間の出来上がりです。

 中学高校でもこういう生き方を続けた結果、大人になっても何か足りたない、何かかけているという思いが消えなくなってしまいました。僕は世間的に見るとむしろ恵まれた方だと思うのですが、僕の中で抜けないトゲ、あるいはぽっかりと空いた穴が何をしていても何か足りない、何か不完全だという満たされない思いを作り出してしまうようになったのです。

 

 こういう満たされない何かの何が問題かって、人生の次のステップへ進んでも周りと同じように動けないんですよ。例えば異性との交際。

 僕にとって異性との交際ってのはセックスとか不倫とか合コンとかではなくて、誰々は誰々のことが好きとか、校舎裏に呼び出して告白みたいな小学校高学年レベルのものです。それは中高男子校だったからってだけではなくて、僕の人生で、小学校高学年の時にクラスの秘密アンケートで気になってる男子リストに名前が上がるとか女子グループと遊びに出かけるとか、足が早くてすごーいって褒められるとかそういうことがなかったからだと思うんです。

 こういう幼い異性体を充分に消化せずに大人になると、大学に入ってからも、周りの男女観の変化についていけなくて、合コンで誰それを持ち帰ったとかあいつの体はよかったとかあの子誰々に食われたらしーよwみたいな普通の大学生がする会話そのものに嫌悪感を感じてしまい、異性そのものから遠ざかっちゃうわけです。

 

 同じことが他の交友関係にも言えて、僕は友達と心からワイワイしたことがないので大人になってからも10年来の親友にすら心を開けない状態だったわけですけど、最近になってちょっとずつ変わってきました。

 

 まず、友達の機嫌を取らなくて良いということに気づけました。

 これだけ長く付き合ってると向こうも相当の時間を自分に費やしてくれているのでちょっとやそっとのことでは怒られないんですね。で、自分も徐々に気を使わなくていいことがわかってきて、居心地が良くなってきて、それで今まで隠してきたことも結構オープンにできるようになりました。今までは嫌われるとかバカにされると思って隠してきたことを正直に話せました。

 次にこちらから遊びに誘えるようになりました。 

 今までは俺の誘いなんか迷惑に違いないと思ってたんですが、いろんな経験をして自分から動かなければダメだと気づけたので誘ってみることが多くなりました。そうすると断られることも多いんですが結構応じてくれるんですね。で、また会いたいとか言ってくれる人もいるし徹夜に付き合ってくれる人もいるしで意外と自分から誘っても悪い気持ちを持たれないんだなということがわかりました。

 

 リア充はこういうことに人生の早い段階で気づいて大量のトライアンドエラーを繰り返して大量の失敗した人間関係と同じくらい大量の成功した人間関係を築いていくから人生が楽しいんだろうと思いました。僕はこれに気づくまで28年かかっちゃったので彼らにはもう追いつけないかもれませんが、自分のこれからの人生をより豊かにしていきたいですね。

 

 さて、これは余談なんですが、半年くらいだらだらラインを続けている女性がいて、僕はライン半年ガールと呼んでいるのですが、彼女と遊ぶ機会がありました。

 彼女がスマブラを持ってきてくれて二人で遊んだのですが、これが楽しかった。何の気兼ねもなく、彼女への対抗心も、自分がどう見られるか心配することもなく、思う様スマブラしました。

 

 

 彼女も結構闇のある人なんですが、僕と遊んだのを楽しいと言ってくれて素直に嬉しかった。。。

 僕は昔64のスマブラを買ってもらうも友達を家に呼ぶ勇気が出ずに一人で黙々とプレイしていた思い出を持つだけにこの経験は自分の中の何かが浄化されたような気がしました。

 

 人は変わることができ、失われた時はとり戻すことができると信じてこれからも自分の穴を埋めていく作業を続けていきたいです。ネタローでした。

*1:その戦略とは徹底的に空気を読み、ひょうきんなキャラを演じることで無害な存在になるということです

人生の遅れについて

人生経験が人よりひどく少ない気がする。

考え方は幼く、大人なら当然できて当然のことができない。

周りが結婚や子どものことで悩んでいるとき、自分は彼女欲しいなんてことを考えている、まるで中学生。、全く成長していない。

 

考えてみれば僕は昔からこうだった。中学生の時は小学生並みの成熟度合いで、大学生になっても高校生に毛が生えた程度だった。

周りが楽しんでいることに興味がなく周囲で流行っていることから背を向け続けたことへの報いだろう。

僕はきっとこうして周回遅れの人生を送るんだと思う。学歴とか仕事とかじゃなく、人間関係に関して著しく未熟で、救いようがない。

 

人間関係に慣れていくには訓練しないといけない。友達の作り方。クラスでの振る舞い方、友達グループで旅行に行った時自分が何をすれば喜ばれるのか、恋はどうやってするのか、失恋はどうやって受け止めるか。そういうものを普通の人は本当に小さいうちから体で覚えていっている。僕はそこから背を向けていたせいで履歴書で言えば数十年分ぽっかりと空白になっている。人生経験に関してはね。そりゃあ相手にされるわけがないよね。

 

今思えば、限定された人間関係が用意されていた学校という空間でもっと積極的に人と交わればよかった。ライオンの赤子が遊びで狩りを覚えるのと同じく、学校という箱庭で鍛えてから社会に出て行くべきだった。それらをサボっていたせいで僕は社会で相応しい振る舞い方のできなおっさんになってしまった。

 

前にもツイッターかどこかで言ったことがあるけど、子供のうちは周りとは大して差がない。みんな同じような容姿、同じような学歴、同じような人生経験しか持ってない。果たして小学生同士でどれだけ魅力に差があるだろうか?どれだけ人生経験にがあるだろうか。

だけど、もう遅い。人生経験は天と地ほども離れ、人間としての魅力ではもう絶対に追いつけない。大学時代、普通の男が友達と旅行に行って運転手を買って出たりコーヒーを差し入れたり、気遣いや優しさを学んでいるとき、僕は誰も訪れることのない部屋で一人コンビニ弁当をがっついていた。苦しかった。周りの男がバイトを頑張って彼女に高いプレゼントを買っていたとき、僕はアニメを見ってブヒブヒしていた。つまらなかった。

今ではどんなときにどんなプレゼントをあげるのが適当なのか、それすらわからない。

絶望の周回遅れ、人がとっくに通り過ぎた景色を少しでも取り返すために、必死になってジタバタ駆け抜ける人生。

 

もう終わりだ

 

寝たろーでした。

憂鬱の正体

みなさんこんにちは。

 

今日は憂鬱感について考えていきたいと思います。

なんでいきなりそんなことを言うかというと、ここ最近ネタロー自身が憂鬱だから。

ネタローはいつも憂鬱なんですがこのところ特にひどい。

 

ところで、憂鬱とか死にたいとかツイッターではよく聞きますが実際のところどういう憂鬱なのかちゃんと言語化してる人は少ないんじゃないかなあと思いました。漠然とした不安、孤独をひっくるめて「死にてえ」という言葉で一括りに表している気がします。というわけで今日は憂鬱を分解してその正体を探ってみたい。

 

まず僕の中では憂鬱の下には幾つかの層があって、一番表面に近いところでは

劣等感、閉塞感、孤独感、不安感があります。

さらに深く潜ってみると、劣等感の下には自分に対する自信のなさ、ビクビクオドオドと人の機嫌を伺っている小心さが控えていました。

これは昔からのことで、僕はそういう気質の人間なのでしょうがないといえばしょうがないんですがいつかはなんとかしたい。

 

次に閉塞感を見ていくと、このまま人生が肯定しないような気持ち、何をやっても失敗してしまいそうな気持ちがあります。何をやっても苦しいままかもしれないし、実際のところ理想にちっとも近づけていていないという現実もある。一生エクセルをカタカタやって通帳眺めてため息ついて、灰色の独身部屋に帰宅する人生が続く気がする。

そういう「もうあなたの人生を変えるチャンスは過ぎてしまいました」感のせいで何をやっても面白くない。

 

孤独感は単純に友達が少なく、恋人もいないため寂しくて仕方がないという現実があります。今まで孤立してきたツケですね。それにしても孤立していて辛かったのにどうして辛かったことの罰を受けなければならないんでしょう。楽しんでいたならまだしも。

 

不安感は、、、、なんだろう。なぜ不安なのかわからないけどとりあえず不安。将来嫌なことが起きそうな気がする、漠然と何か苦しい未来が待っている気がする。そんな感じ。

 

これらと年齢からくる焦燥感が合わさって僕の憂鬱を構成しています。時によて孤独感が強かったり閉塞感が強かったりはしますが基本的にはこの組み合わせでできています。

この憂鬱とどう付き合っていくかが今後の課題になりそうです。

ネタローでした。

恐怖の自慰行為

みなさんこんばんは。

今日はちょっと下品な話です。

自慰行為、オナニーについてのお話をしたいと思います。

 

さて、じゃあ自慰がどうしたんだっていう話なんですが、その前に僕のアメリカ留学について話そうと思います。

 

僕はアメリカで一つの家を四人でシェアしていました。その家には二つのベッドルームがあり、それぞれを二人で使用していました。

つまり、僕にはルームメイト一人とハウスメイト二人がいたことになります。その生活を1年間続けました。

 

さて、僕のルームメイトはオーストリア人でなかなかムカつくやつだったんですが、それはともかく、困ったのはいつ自慰をするのかということ。そいつがどうしていたのか定かではないのですがモテない僕は性欲を自分で発散するしかない。

なので、僕はそいつがいない間にコソコソっと済ませていたんですが、そのせいで日本に帰ってきて一人暮らしをしている今もそういう気分になるとその時のビクビク感も自動的に蘇ってしまう困った体になってしまいました。本当なんです。

 

パソコンを起動し、夢中になって画面にかじりついているとふと感じる視線、振り返るとハウスメイトと他のハウスに住む女の子たちが半笑いでこっちを見ている……。

はたまた、夢中になって右手を前後に動かしていると急に部屋が開けられ気まずい沈黙が流れる中情けなく射精する僕……。

今、僕にとって自慰行為をするというのはそういう恐怖と立ち向かうこととセットなんです。マジで。

 

で、非常に気分が悪いのですが、この状況を打開するためにある作戦を考えました。題してイメージで塗り替えろ作戦。悪いイメージはいいイメージで塗り替えちゃおうという作戦です。女の子たちが半笑いで見てきたらすかさず頭の中でハーレムモードをオンにします。そして始まる白人パラダイス。白人の若女性たちとくんずほぐれつめくるめくパーティの始まりの合図! 関係ないですが僕の周囲はなぜか白人が多かったんですね。

今の所あまり効果はありませんがしばらくの間続けてみようと思っています。

ネタローでした。

花粉症パラダイス

花粉症に苦しんでいます。

花粉症というのはすごいですね、毎年決まった時期に鼻水と目のかゆみ、くしゃみが同時に襲ってきて全く物事に集中できなくなってしまうなんて。

しかし女の人は月に一度痛みのせいでこういう状態に陥ると考えたら女体というのはすごいものです。

ネタローはモテないのでよく知りませんが。

 

さて、花粉症はさておき、アラサーらしいイケてる生活について考えてみたいと思います。ネタローにとってイケてる生活とは、臨海地区の高層マンションに一人暮らしして

、窓の外に広がる建設中のプラントやコンテナヤードを眺めるというものです。

ひねくれていますね、というか我ながらどういう欲求なのかさっぱりわからない。少なくともエドガー区の木造建築で隣人の騒音にキレながら生活するのは違いますが。

 

昔から工事現場とか好きだったんですが、最近では特に大規模なもの、大成建設がCMでやってるような国家プロジェクト級の工事が好きになっています。SFっぽくてかっこいいですよね。

ネタローはそういうとこで働きたいわけじゃないんですが*1、まさにその現場を眺めながら生活したいという欲求があります。世界が進歩している実感を味わいながら生活したい。そんで夜でも稼働するプラントを眺めながら別に好きじゃない女とセックスとかするわけです。めちゃくちゃイケてますね。村上春樹っぽい。

 

大規模な港湾自体魅力的ですよね。男の世界というか機械と筋肉の世界。でかい機械とでかい男達しか立ち入れない場所です。

ネタローは貧弱な精神の持ち主なので侵入したらその場で屈強な男達にゴーホームを命じられるでしょう。

 

ところでそういう場所*2に住むには何が必要なのか。

貧乏アパートでのんびり暮らしながらすぐそばに広がる最新の技術を眺めるのもそれはそれでSFっぽいですが、ここではイケてる生活ということなのでお金持ちライフを追い求めます。

 

では実際のところ何が必要なのか。

高級マンションに住むためのお金、一等地に住むためのお金、イカした生活をするためのお金。いくらあっても足りませんね。カネです。そんじょそこらの高給取りではなく、おそらくエリート職、例えば政府公認のハッカーとかじゃないと無理でしょう。

さらに個人的には公務員とかではなくて民間の華やかな仕事についていたい。*3

そしてお金とか女とかを冷笑していたい。*4

 

こうしてみるとネタローが欲しいのは他人が欲しがるモノをすでに持っている人間の余裕であってモノそのものではなさそうです。

どうすれば余裕が手に入るのか。モノを手に入れれば余裕が出てきそうですが得てしてそういうものはすでに余裕のあるやつのところに集まるんですよね。

しかしながら、そういうモノを手に入れたい、手に入れられる人間になりたいという情熱だけは持ち続けていたい。

なぜなら変わる意思を持つ者だけが変わることができるのだから・・・。

 

最後にいい話になったところで今回は終わりです。

ネタローでした。

*1:ていうか大変そうだし絶対に嫌だ。

*2:この世に存在するのかわかりませんが

*3:政府公認のハッカーとかは別です。公務員なのかは知りませんが

*4:持てる者の余裕というやつ

クオーターライフクライシスについて

こんにちは、ネタローです。

 

突然ですが、皆さんはクオーターライフクライシスという言葉を聞いたことがあるでしょうか。人生の4分の1(クオーター)を終えた25〜30歳くらいの若者(?)に訪れる憂鬱感や焦りのことだそうです。周りの人は習い事や仕事に打ち込んで結婚して出産して、と着実に人生の段階を上げていっているのに、自分はそうではないという焦り、一生自分だけできないのではないかという恐怖感はこの世代になってみないとわからないことかもしれません。

 

僕も絶賛この期間にいまして、毎日が焦り、憂鬱、絶望、自己嫌悪の連続です。もともと劣等感強めだったのがここ最近は特にひどい気がする。。。

 

何が憂鬱かって、自分が些細なこと、大事ではないことに時間を費やして、一度しかない貴重な人生を無駄にしてしまっているのではないかということ。自分が今行動を起こさなかったせいでこの先一生惨めな生活を送り後悔してしまうのではないかという恐怖。

この年代のOLが先を争うようにして新しく習い事を始める気持ちもわかる気がします。。。

 

自分の場合は暗黒の大学生活を過ごした後悔が特に大きい気がします。本当なら部活やサークルに積極的に打ち込んで、彼女も作ってセックスもして、という健常ライフを送れていたはずが実際は友達すらろくにいない、日の目を見ない小説執筆と自己嫌悪の日々でした。どこで間違ったのか何が悪かったのか。

違う親の元に生まれていれば別の小学校に行っていれば、どこかで誰かがもう少しだけ優しければ...こういうことを考えていると眠れなくなります。

特にお酒を飲んで深夜に目が覚めてしまった時は虚しさがやばい。

自分が決してまともな人間になれないかのような錯覚にとらわれしばらく動けなくなってしまいました。

 

自分もやりたいこと、初めて見たいことがたくさんあります。それをするには今が最後のチャンスなのかもしれません。おじさんになって初めてもかっこよくないですからね。

結局自分のやりたいことを少しずつ、毎日ひとつずつやっていくしかないのかもしれませんね。お酒に溺れたりせずに。。。。